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現存12天守の1つでもある備中松山城は、倉敷駅から米子や松江に向かうJR伯備線で30分ちょっとのところにある備中高梁市の北側にそびえる標高約480mの臥牛山に広がる現存12天守のひとつです。鎌倉時代の地頭秋庭氏が1240年に臥牛山のうちの大松山に砦を築いたのが始まりで、1574年の「備中兵乱」のときにはすでに臥牛山全体が一大要塞になっていたようです。
臥牛山は北から大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの峰からなり、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは標高430mの小松山の山頂を中心に築かれた城郭(小松山城跡)を指しています。場内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存していて、現存する山城としてはもっとも高い位置にあることでも知られています。現存する天守は1683年に城主水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。
天然の巨大な花崗岩を石垣の一部として取り込んで築城(大手門脇)
目次
備中松山城の歴史
- 戦国時代に入ってからは毛利氏が関与を続けながら城主は変わるも最終的には毛利氏の拠点に。
- 1240年に秋庭氏が砦を築いて以降城主は入れ替わり、1561年に毛利元就の支援を受けた三村家親が備中松山城を攻めて城主の庄高資を追い払うが、その5年後に備前の宇喜多直家の刺客に襲われて死去。
- 家親の子、三村元親が父の仇討として宇喜多直家を攻めるも大敗、 庄高資が宇喜多氏の加勢を得て一時的に備中松山城を奪還。
- 1571年、三村元親は毛利氏の加勢によいって備中松山城を奪回し、備中国中北部を支配。
- 1574年、今度は毛利氏が宇喜多氏と和睦したため三村元親は毛利氏から離反して織田氏と通じる。そのため、毛利・宇喜多氏の攻撃を受けて備中松山城に籠城する(備中兵乱)も翌年に三村元親は自害して落城。
- 1580年に、毛利輝元が備中松山城に入城し東方進出の拠点に。
三の平櫓東土塀:山城に現存する土塀は珍しい(一部復元部分あり)
- 関ケ原の戦いで西軍総大将を務めた毛利輝元が敗北して毛利氏が防長二国に退いてからは、備中国奉行の小堀正次、政一(遠州)親子による修改築がなされて備中の要衝としての役割を担い続けました。
- 以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わって明治維新に。
- この間、水谷氏は1642年~1693年まで3代50年以上にわたり備中松山藩を治めていて、初代勝隆が新田や水路開拓など経済基盤を整備、二代勝宗が1681年から3年かけて城の大改修を行いました。
- 備中松山踊りは岡山県三大祭りのひとつにも数えられ、この水谷氏の時代に始まりました。
曲輪ごとに石垣が段々に築かれている
明治以降の備中松山城蘇生の歴史
- 明治維新後は廃城令が出されて各地の城郭が取り壊されるなか、備中松山城の諸施設は標高400mの山中にあるためそのまま取り残され、大正末期にには城内は荒れ果てて天守をはじめ数棟を残すのみに。
- 昭和2年、県立高梁中学校に赴任していた信野友春が城と城下の研究成果として発表した「備中松山城及其城下」が反響を呼び、城保存の機運が高まりました。
- 翌昭和3年には新見営林所から二重櫓が払い下げられ応急解体修理を実施。
- 昭和14年~15年には天守の全解体修理を実施。
- このとき、昭和15年の夏には小学校高学年の児童、中学校生徒、女学校の生徒などにより夏季心身鍛錬行事のひとつとして約2万枚の瓦が担ぎ上げられました。
- 竣工後には天守と二重櫓などが国宝に指定。
- その後、昭和32年~35年の「昭和の大修理」(天守の部分修理、二重櫓・土塀の解体修理)、平成13年~15年の「平成の大修理」を経て現在に至ります。
天守・本丸・二の丸付近の写真
黒門跡付近から二の門跡方向と御膳棚(トイレあり)を見上げたところ
鉄門跡(二の門跡):長かった山道もここで終了
二の丸跡広場から見た本丸跡・現存天守
二の丸跡広場から見た本丸跡・現存天守
二の丸跡広場から見た本丸跡・現存天守
本丸跡広場から見た天守(三層に見えるが実際は二層)
天守入口:天守内で石垣を登って一層目に入るしくみになっている
天守最上階
天守最上階からみた本丸跡広場
二重櫓(重要文化財):天守同様に現存する建物
天守横から土塀沿いに二重櫓を臨む
備中松山城へのアクセス
天守へは最低20分山道を歩く
備中松山城へは高梁市ホームページの案内にもあるように、どの交通手段を使っても最終的には8合目の「ふいご峠駐車場」から山道を20分ほど歩かなければ天守閣のある小松山城跡エリアまで行くことはできません。
ふいご峠駐車場から二の丸エリアにかけての遊歩道
遊歩道から見た高梁市の眺望
ふいご峠駐車場までは自家用車で上がることが出来ますが、ひとつ下の城見橋公園駐車場(城まちステーション)から登城整理バスが運行される桜シーズン、GW、夏休みシーズンや秋行楽シーズンの週末、そして11月などは自家用車もこの城見橋公園駐車場までしか行けず、ここからは登城整理バス(小さなワンボックス)を利用することになります(往復400円、15分間隔のピストン輸送)。城見橋公園駐車場にはトイレや自販機のほかにも小さな土産物販売店もあります。
8合目ふいご峠駐車場(トイレ、自販機あり)
ふいご峠右奥から遊歩道を天守まで20分歩く
電動付自転車のレンタルや観光乗り合いタクシーもおすすめ
公共交通機関の場合は、城見橋公園駐車場よりさらに下にある松山城登山口まで市内循環バスが走っており、そこからふいご峠駐車場まで遊歩道を30分ほど歩き、そこからさらに小松山城跡エリアまで山道を20分歩きます。
城見橋公園駐車場のすぐ下の道路
城見橋公園駐車場~松山城登山口(市内循環バス)の道路
自家用車やレンタカーもないけど合計50分も歩きたくない場合は、前日17時までの予約で備中高梁駅前観光案内所から備中松山城・観光乗合タクシーが毎日4本ほど出ています。
雨が降っていなければ実はけっこうおすすめなのが備中高梁駅でのレンタサイクル(電動付自転車あり)。自家用車同様、繁忙期は城見橋公園駐車場までの利用となりそこからは登城整理バスに乗り換える必要はありますが、1日1000円の出費でその後の高梁市内の観光にも使えますのでかなりお得感と利便性があります。
雲海展望台は反対側の別ルート(乗り合いタクシーあり)
備中松山城雲海展望台は上記の南側からのルート上にはなく、小松山城跡の北側にある臥牛山のさらに向こうに駐車場がありそこから車道を5分500mほど戻ったところにある展望台まで歩きます。こちらも雲海展望台・観光乗合タクシーが毎日2便運航されていて前日17時までに予約する必要があります。
備中高梁駅は便利で快適
ちなみに、高梁市は人口3万人に満たない小さな街ですが、備中高梁駅の2~4階は高梁市の複合施設があり、高梁市図書館、蔦屋書店、スターバックスコーヒー、高梁市観光案内所などがあり、休息や時間つぶし、情報収集などをするのには大変便利で快適。2階奥のトイレ近くには無料のコインロッカーもあります。
JR伯備線の備中高梁駅2階の高梁市図書館入口
写真左側が観光案内所、奥にスタバ、書店、図書館、ロッカーなど
関連・参考サイト
- 高梁テクテクマップ
- 備中松山城 城山ウォーキングマップ
- ランチマップ
岡山イーブックス(okayama ebooks)←こちらのほうが上記より軽くて快適