近江八幡:城下町と水郷が生んだ近江商人発祥の町
① 近江八幡は豊臣秀吉の甥秀次が築城した八幡山城の城下町として近江国内の多くの商人も集められて発展
② 城が破却されて城下町機能が失われた江戸初期以降も、残った八幡堀が流通の要となり近江商人が全国に進出
③ 10世代を超えて活躍した商家や残っている近江商人本宅も数多く、また名だたる有名企業となった商家も少なくありません
④ 家康も参拝し近江商人も崇敬する日牟禮八幡宮は2世紀が起源で、10世紀末に宇佐八幡宮を勧請してできた遥拝所
⑤ 江戸初期から朝鮮通信使を10数回迎え、明治期以降はヴォーリスの洋風建築も見られ、早くから外国文明にも触れてきた街

近江八幡:関白豊臣秀次が築いた水郷の城下町は近江商人発祥の近世商業都市へ

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近江八幡は、豊臣秀吉が甥でのちに関白になる豊臣秀次に築かせた八幡山城の城下町として発展を始めました。織田信長の安土城下と同様、楽市楽座令が敷かれ、近江国の商人たちが集められました。秀次が去り、八幡山城が破却され、江戸幕府の直轄地となり、殿様と武士という最大の顧客が不在となると、商人たちは秀次が残して流通の要ともなった八幡堀という地の利も生かしながら、当時急速に発展していた江戸や全国に機会を求めて進出していき近江国の八幡を繁栄させるとともに、国内各地で多くの事業・産業を興しました。

また、八幡は江戸初期から約250年間で10回を超える朝鮮通信使の経由・休息地としても活用されたり、明治に入ると、建築家、キリスト教伝道者、そして事業家でもあるアメリカ人のウィリアム・ヴォーリズが60年近くを過ごすなど、古くから海外の文化・文明にも接してきて新旧市街地にその名残を楽しむこともできます。

見どころとしては、国の重要伝統的建造物保存地区にも指定されている新町通り、永原通り、八幡堀、日牟禮八幡宮、八幡山とロープウェイ、八幡商人たちの旧宅、市立資料館、そしてヴォーリズが残した建築群などに加え、八幡堀や日牟禮八幡宮周辺、ラコリーナ近江八幡、きてかーななど買い物、飲食を楽しめる場所、新名所もあります。

目次

保存地区の町並み~新町通りと永原町通り

近江八幡市立資料館

考古資料などが展示されている郷土資料館、近江商人の帳場風景を再現している歴史民俗資料館、江戸中期の典型的な商家・旧西川利右衛門家住宅・旧伴家住宅の4館で構成されています。

郷土資料館
 明治9年、警部八幡出張所が八幡町に置かれ、明治11年に八幡警察署となり、明治19年にこの場所に庁舎が新築されました。昭和28年にヴォーリズ設計事務所が現在の意匠に改築しました。昭和49年に市に譲渡され郷土資料館として開設しました。
 保存地区の新町通り(上記写真)と朝鮮人街道(後述)の交差点に立地していて、すぐそばに旧近江商人住宅の伴家住宅や西川甚五郎邸もあります。八幡山城や豊臣秀次、城下町や近江商人などについて分かりやすくパネルやビデオで説明しているのでここからスタートするのもよいと思います。

民族資料館
 もともとは八幡商人の中でも豪商といわれた、江戸末期の建築とされている森五郎兵衛(初代は江戸中期に煙の行商で関東一円を回り、江戸に出店して近江の麻布や関東の呉服を扱った)の控え宅で、明治に入って近江八幡警察署長官舎として使われていたものを昭和54年に譲り受けて民族資料館として開設されました。郷土資料館と同じ敷地内の奥にあります。

近江商人屋敷

旧西川利右衛門家住宅(市立資料館)

 すぐそばの郷土資料館や民族資料館とともに現在は市立資料館のひとつを構成していて、町並み保存エリアである新町通りに面しています。西川利右衛門家は11代約300年続いた、近江八幡市を代表する近江商人です。
 西川家初代の西川勘右衛門数吉は、もともと木原と称して朝倉氏の家臣として仕えていましたが、朝倉家滅亡後、近江の蒲生郡で西川家の養子となり、その長男として生まれたのが初代西川利右衛門。一頭の馬を購入して東海道を往復しながら始めた畳表や蚊帳の行商して財を成し、大坂で近江屋八右衛門、その後江戸で大文字屋嘉兵衛と称して出店。最盛期は江戸城本丸と西の丸の畳替えをすべて受注するなど世間の高い信頼と評価を得ていて、江戸日本橋通りの近江商人店のなかで大文字屋が最も繁盛していました。

 本住宅は1706年に建てられた京風の建物で、11代当主が亡くなってから市に寄贈され、保存修理を施して昭和60年に現在の姿になりました。入口正面にある1680年代に建てられた蔵は全国的にも珍しい三階建ての土蔵です。

旧伴家住宅 (市立資料館

 初代伴庄右衛門は寛永年間(1624-45)に東京日本橋に出店し、扇屋の屋号で麻布・畳表・蚊帳を取り扱いました。1733年に生まれた5代目の伴蒿蹊は、本居宣長や与謝蕪村とも親交のある国学者でもありました。その後、伴家は繁栄をするものの、明治の激動期に逆らえず1887年に終焉。
 現在残る住宅は7代目が本家として、10数年をかけて1840年に完成させたもので、伴家終焉後に八幡町に譲渡されました。その後、小学校、役場、女学校と変遷し、戦後はヴォーリズの近江兄弟社図書館として使用されたのちに近江八幡市立図書館となり、その後現在の形で公開されています。

西川甚五郎本店史料館(西川甚五郎邸)

 西川甚五郎本店敷地内に、古文書や古物などを展示して450年以上にも及ぶ西川家の歩みを紹介することで近江商人への理解を深めることを目的として2021年10月14日に開館。

蚊帳や弓を主力に6代までに江戸と京都に出店
 西川家の歴史は1566年に初代仁右衛門が19歳で蚊帳・生活用品販売業を開業したことで始まります。豊臣秀次が1585年に八幡山城と城下町を築いたため、初代は近江八幡に移住、1587年に近江八幡に山形屋を開店しました。1615年には江戸日本橋に「つまみだな」と呼ばれる支店を開設。1628年に2代目甚五郎が相続し、蚊帳の研究を重ね、 萌黄蚊帳 を考案し、1706年には江戸町奉行より蚊帳問屋に指定されます。
 徳川吉宗の享保の改革による緊縮・倹約政策で景気が悪い中で経営不振にあった京橋の弓屋・木屋久右衛門の店を5代目利助が買い取りその店舗が軌道に乗ると「つまみだな」店から独立して、1741年に「かくまん」店として営業開始。西川家は仕入れ先であった京都の生産者と独占契約を結び、京都の弓を江戸で独占販売する権利を得ました。さらにその後、6代目利助が1750年京都の寺町松原に支店「きょう」店(旧・京都西川)を開設。

経営も三本の矢で刷新
 1771年に西川家中興の祖といわれる7代目利助が家督を相続。前年から2年続いた干ばつ、その翌年の目黒大円寺の大火(江戸の三大火のひとつ)、1783年の浅間山大噴火とそれに続く大飢饉と、幾多の災害が続いたので、西川家は積立金制度「除銀(よけぎん)制度」を整備。各店純利益を本家収入から分けて積み立て、不測の出費に備えるためとともに、今度はそれを家屋敷の購入に充てそこから地代を徴収し、それを貸付金に回す仕組みを確立。
 このころ田沼意次が大飢饉による一揆の増加や賄賂への批判などで失脚し、1787年から寛政の改革が始まると、これも緊縮財政や借金取り消しなどで商人社会は再び危機に見舞われました。そうした状況のなか、7代目利助は奉公人のモチベーションを上げるために第二の改革として、純利益を3等分してそのひとつを奉公人に配分するという「三ツ割銀制度」を導入。
 さらに第三の改革として、奉公人に分家の資格を与える別家制度の「法廷目録」を1799年に制定し、本家・親類・別家の共同責任体制や権限・義務などを明確化。

明治以降に「布団の西川」が幕開け
 明治維新後に弓の販売がほぼなくなり主力商品が蚊帳と畳表となっていましたが、弓の穴埋め、新時代における生活必需品の需要拡大、そして夏の季節商品蚊帳に対して冬に売れる布団という点で蒲団を追加し、ここに「蚊帳・蒲団の西川」のベースが確立。

白雲館観光案内所

 近江商人たちが教育の充実を図るため1877年(明治10年)に建設され、八幡東学校として1891年まで使われた後、1893年以降は八幡町役場や蒲生郡役所など変遷。1966年以降は民間所有でしたが、1992年に近江八幡市に移管され、1994年の解体修理によって創建時の姿に復元されました。現在は観光案内所併設の市民ギャラリーとして使用されています。

近江八幡の歴史と現在を築いた立役者

日牟禮(ひむれ)八幡宮と八幡山

  • 伝承によれば第13代成務天皇が即位された131年、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じてこの地に地主神の大嶋大神を祀ったのが始めとされています(ちなみに武内宿禰は第12代から第16代の仁徳天皇まで5代に仕え、蘇我氏や平群氏などその後の中央有力豪族の祖ともいわれています)
  • 275年に、第15代応神天皇が近江を訪問され帰られる際に現在の神社近くに御座所を設けて休憩されました。その後、この仮屋跡では日輪をふたつ見るという不思議な現象があったため、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けられたとされています
  • 691年、まだ日本書紀に名前が見られたばかりで30代前半の藤原不比等が参拝し、”天降(あめふり)の 神の誕生(みあれ)の八幡かも ひむれの杜(もり)になびく白雲”と詠み、それにちなんで「比牟礼社」と改めたとも伝えられています(他説あり)
  • 991年、一条天皇の勅願で、八幡山に社を造営して九州大分の宇佐八幡宮(現在全国に約44000ある八幡宮の総本社)を勧請。1005年に山麓に遥拝所(遠く離れたところから拝むために設置)を建て、山上の社を「上の社」、遥拝所を「下の社」としました
  • 1585年には、豊臣秀次公が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀し、替地として日杉山に造営して祀る計画でしたが、秀次自害により実行は至らず現在の一社体制に
  • 「上の社」移築後の八幡山城跡には現在、日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲御所瑞龍寺があります⇒八幡山山頂マップ(近江鉄道の八幡山ロープウェイサイト)
    • 1596年、秀次公の生母である瑞龍寺殿日秀尼公が高野山で割腹、非業の最期を遂げた秀次公の菩提を弔うため、日蓮宗唯一の門跡寺院である村雲御所瑞龍寺を京都嵯峨に創建
    • 江戸時代初期に西陣(堀川今出川付近)に移転(徳川宗家にも保護)
    • 1788年の天明の大火で全焼したあと、1824年から28年をかけて再建
    • 961年の堀川通りの拡張工事の際に八幡山城址に移築
  • 1600年、徳川家康公が関ヶ原決戦の後に参拝、武運長久を祈願し御供領として50万石の地を寄附
  • 江戸時代以降、八幡堀は琵琶湖航路に組み込まれ、もと城下町は近江商人の街として発展。近江商人が八幡宮を守護神として崇敬
  • 1876年に郷社、1916年に県社となり、1966年に神社本庁別表神社に加列し、日牟禮八幡宮と改称
  • 1954年の市制移行時は、当地に八幡さまが祀られていたことが市名「近江八幡」の由来に
  • 社宝のひとつ「安南渡海船額」は、- 江戸時代の近江商人西村太郎右衛門が安南(ベトナム)に渡って財をなし1647年に帰国したものの、鎖国のため上陸を許されず、九州にいた絵師 菱川孫兵衛に自らの姿を絵馬に描かせて人を頼んで九州長崎から日牟禮八幡宮に奉納させたもの

八幡山城とその城主~豊臣秀次と京極高次

  • 小牧・長久手の戦いで初陣は飾れなかったものの、翌1585年の紀州根来攻めと四国征伐で武功をあげ、宿老分を含め近江43万石を拝領した秀次が八幡山城を築城。安土の楽市令にならい「八幡山下町中掟書」を制定して城下町の基礎を作ります
  • 1589年に小田原攻めに参陣後、尾張の国清洲城城主に。その後は近江家の守護家佐々木家の一門である京極家の流れを組む、現在の高島市にあった大溝城1万石城主だった京極高次が2代城主に
  • 1590年に秀次は関白となるも、1593年に秀吉の次男秀頼(長男鶴丸は1591年に2歳にて没)が生まれると、秀吉から疎まれ、石田三成らの奉行層とも対立し、高野山に追放され自害
  • 1593年、八幡山城は破却、京極高次は大津城主になりますが、町場は(城下でない町場である)在郷町として高次領として継続。ちなみに高次の正室は浅井長政と織田信長の妹お市の方の間に生まれた三姉妹の次女「初」
  • 1600年、関ケ原の戦い8日前に始まりその前哨戦とも位置付けられた大津城の戦いでは、籠城作戦で1万人を超える西軍の軍勢を関ヶ原主戦場へと向かわせず足止めさせました。その功で戦後は若狭一国を治める国持大名となり、京極家を再興し、近世大名家としての礎を固めました

八幡商人の成立と発展

信長と秀次の楽市楽座令で商人が八幡に集結
 中世の近江国には、もともと四本商人(蒲生町の石塔商人、愛知川の沓掛商人、今堀日吉の保内商人、そして東近江市の小幡商人)と五箇荘人(彦根の八坂商人と薩摩商人、近江八幡の田中江商人、高島の南市商人、そして小幡商人)というふたつの商人グループがあり、前者はが伊勢方面で商売をする権利、後者は若狭方面の物資を琵琶湖から京都へ運ぶ権利をそれぞれ有しながらそれぞれの出身地を拠点に商いをしていました。
 織田信長が安土城を築城し城下に楽市楽座令が敷かれると、税金をかけられずに自由に商売ができ、しかも「喧嘩、口論、押買、押売等禁止」など治安も安定すると、四本商人・五箇商人のほとんどが安土城下に集まりました。
 その後、信長が本能寺に倒れ、安土城も灰燼に帰すると、豊臣秀吉が甥の日で次に築かせた八幡山城の城下町に、安土城下に発せられたのと同様に13ヶ条の掟書による楽市楽座令が敷かれました。街道沿いの商人を強制的に城下に寄宿させるだけでなく琵琶湖を行きかう商船も八幡堀を使って寄留させることが追記されました。こうしてひとたび安土に集められた商人たちは八幡に再移住し、のちの近江八幡商人となっていきました。

市内に残る商人出身地名
 町並み保存地区の一部である新町通り近くに小幡町という地名がありますが、ここに小幡商人と思われる人たちがったくさん移住してきました。四本商人と五箇商人の両グループに属していたため近江一帯のかなり広範で強い権利をもっていた小幡商人の痕跡を感じ取ることができます。

八幡に武士なきあとは江戸や全国に
 ところが、秀吉に実子ができて秀次が疎まれて高野山で自害、八幡山城も破却、関ケ原合戦後は天領となり、商人たちは最大の顧客であった武士を失い、路頭に迷う危機に瀕します。そこで幕府が開かれ都市の整備も進み人口が急増していた江戸、あるいは北関東や東北など他国に活路を求め始めました。
 畳表や蚊帳の原材料を仕入れて各地に運び、ローカルで生産されたものを大消費地の三都で売り歩くという事業モデルを展開、さらに八幡の大店(おおだな)と呼ばれるほど取引規模多い店舗を都市部に多く出店しました。西川産業㈱はそのひとつで当時から東京日本橋に拠点を持ち続けています。

蝦夷地でもアイヌとの交易や水産物取引で大活躍
 江戸初期に成立した松前藩は、コメが取れないため家臣に与える知行地の代わりに、アイヌとの交易を行う商場(あきないば)を与えていました。そこに商人たちが松前藩に営業税を納めて商場の経営を請け負うように。そして漁業に注目してより広いエリアを「場所」として請け負い大掛かりな漁業を展開する「場所請負制」が18世紀前半には一般化しました。
 近江からはもともと琵琶湖沿岸の柳川村と薩摩村の商人が作りのちに八幡商人も加わった両浜組という同業者組合が松前藩に貸し付けをしたり御用金調達窓口になる代わりに、蝦夷地での商業における特権的な立場を獲得していきました。ところが1799年に東蝦夷地を幕府が直轄化すると江戸の商人も進出して両浜組の特権的立場は揺らぎ、中小規模の商人が脱落。その後も、ロシアの進出やペリー襲来のたびに幕府の蝦夷地直轄化が繰り返されました。
 蝦夷地の物産は当初敦賀経由で琵琶湖を通り京都や大坂に運ばれましたが、その後下関経由で瀬戸内海を大坂まで直送する西廻り航路が発達すると敦賀~大津の輸送量が低下、また両浜商人と密接につながっていた越前などの船主も自ら船を動かして商人となる北前船となり、蝦夷地での近江商人の勢力は低下。
 近江の両浜組商人のひとりである初代西川伝右衛門は17世紀半ばに蝦夷地進出、18世紀に入り2代目が待つ前に出店し、現在の小樽市域を請け負うようになりました。屋号は松前で『住吉屋』、近江で『松前屋』。明治に入り場所請負人制度が廃止となったあとも10代貞次郎は蝦夷地事業の大部分を継続。1874年に松前から戻り、1881年に郷里で西川甚五郎・西川仁右衛門などとともに発起人となり八幡銀行を設立して頭取、1889年に八幡町の初代町長になるなど、活躍の場を広げていきました。

八幡堀の繁栄と復活

 八幡堀は1585年に四国征伐で功績をあげた豊臣秀次が八幡山城と城下町をつくった際に開削され、堀の北側が武士、南側に町人の居住区となりました。堀は城防衛の役割と、琵琶湖と町をつないで湖上を往来する商船をすべて寄港させるという商業的な理由により作られました。秀次が高野山に自害して城が棄却されたあとも、町は大坂と江戸を結ぶ重要な交易地として発展、全国に旅立った多くの八幡商人による町の発展の原動力になりました。

 八幡城下は当初から家と家の間に排水溝を作り生活排水を八幡堀まで流す背割(せわり)と呼ばれる下水システムを導入(当時は通常、家ができたあとに下水路を作るので画期的)。堀に溜まった汚泥は定期的に取り除かれ、近隣の田畑の肥料などとしてとして使われました。
 堀には戦後まで150石船が行き来していて水運業者などが定期的に浚渫していたのと、住民の心遣いで昭和20年代くらいまではきれいな状態が維持されていました。ところが昭和も後半に入る運河機能はなくなると「川ざらえ」も行われなくなり、高度経済成長期に入ると人々の関心も薄れてヘドロが堆積してドブ側のようになり、昭和47年に市は埋め立てて公園と駐車場にする計画まで立てました。

 これに対して青年会議所が計画の見直しを迫り、署名活動や自主清掃を開始、昭和50年には「よみがえる近江八幡の会」が発足、堀の保存修景活動は市民全体に広がりました。「八幡堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」が合言葉。翌年には浚渫工事が開始され昭和54年に完成。昭和57年に石垣の復元や遊歩道や広場の設置も行われ、平成4年には新町通り、永原通り、および 日牟禮八幡宮境内地とともに八幡堀両岸が国の重要伝統的建造物保存地区に指定されました。

朝鮮通信使と朝鮮人街道(京街道)

 1375年に将軍足利義光が派遣した使者に対して当時の到来王朝が返礼のために派遣したのが起源でしたが、豊臣秀吉による朝鮮出兵により一旦国交は途絶えました。その後、徳川家康が対馬の宗氏を通じて朝鮮との就航に尽力、1607年に朝鮮からの使節団が再開。当初は朝鮮出兵で日本に連行された朝鮮人の所在調査と送還が目的でしたが、1636年の第4次来日からは本来の「信(よしみ)を通わす使者」として派遣され、1811年まで12次に渡って実施されました。

 現在のソウルから釜山まで朝鮮半島を縦断、そこから海路で対馬や壱岐を経由して福岡沿岸から下関に入り、瀬戸内海を渡って大坂、さらに船で淀川を京都伏見まで進み、そこからは陸路で現在の滋賀、岐阜、愛知、静岡、神奈川の各県を通って将軍に国書を届けました。ソウルから江戸まで約2000kmで往復で約1年を費やしました。
 滋賀県内では現在のJR野洲駅近くの(現在も町名に残る)小篠原から彦根を過ぎた宿場鳥居本の間は中山道から分岐し、八幡町も経由する約42kmの道を通り、これが朝鮮人街道と呼ばれています。道中前後の守山宿と彦根が宿泊で、八幡町は昼食休憩で使われました。豊臣秀次が安土城から移築した市内随一の大寺である本願寺八幡別院、朝鮮街道沿いの寺や商人屋敷が休憩先になりました。

 朝鮮人街道はもともと安土城築城の際に信長が京都までつないだ「京街道」に始まり、中山道を「上街道」、朝鮮人街道側を「下街道」や「浜街道」と呼んだりもしていました。総勢300~500名に及ぶ通信使団を考慮すると、彦根や八幡など大きな町を通るルートのほうが合理的で、しかも上街道をいく大名行列との遭遇も避けたかったためとも考えられています。
 ちなみに、江戸幕府は琉球王国とともに朝鮮を正式な国交がある「通信国」としており、中国の明や清、ポルトガル、オランダ・イギリスなどは「貿商国」の位置づけで、幕末までは正式な外交関係ではありませんでした。

参考:朝鮮人街道と本願寺八幡別院(近江八幡観光物産協会のサイト)

ヴォーリズとヴォーリズ建築

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)
 明治38年に24歳で現在の八幡商業高校に英語教師として来日し、キリスト教伝道に腐心するとともに、全国で約1600の建築・設計に携わりました。1941年に日本人に帰化し、満喜子夫人の名字および米国から来て留まっているという意味をこめて、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名。また終戦直後にはマッカーサー司令官と近衛文麿との仲介工作にも尽力し、その後天皇陛下には4度謁見しています。昭和39年に83歳で亡くなるまで近江八幡の地を離れることはありませんでした。
 現在も本社が町並み保存地区にある医薬品メーカー、近江兄弟社の前身となるヴォーリズ合名会社の創立者の一人で、メンソレータムを広く日本に普及させた実業家でもあります(現在はメンソレータムはロート製薬の商標で近江兄弟社はメンタームを販売)。大杉町通りにあるヴォーリズ像(写真)の道反対側には近江兄弟社㈱があり、その中のメンターム資料館でもヴォーリズ氏の歩んだ足跡を写真パネルで展示しています。

 周辺の代表的なヴォーリズ建築は、旧八幡郵便局や昭和6年築でヴォーリズ夫妻旧宅であるヴォーリズ記念館(一柳記念館)のほか、アンドリューズ記念館ウォーターハウス記念館(池田町洋館街)、旧伊庭家住宅(安土)など。

旧八幡郵便局
 日本の町屋造りとスペイン建築を折衷した大正10年竣工のヴォーリズ建築で、昭和35年まで郵便局舎として使われていました。その後、民間の所有となり長らく空き家として放置されていましたが、平成9年から保存再生され、現在はギャラリーやイベント会場などの多目的スペースとして活用され一般開放されていて、「ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会」事務所にもなっています。

アクセス

  • JR琵琶湖線(東海道線)の近江八幡駅から近江鉄道バスの長命寺線で約5分で「市立資料館前」や「大杉町八幡山ロープウェイ口」などに到着(日中は20~30分間隔で運転)
  • 駅前のレンタサイクルもあります(少し離れた”ラ コリーナ近江八幡“や県内最大級の農産物直売所”きてかーな“訪問などにも便利)
  • 近江八幡駅へは京都駅から琵琶湖線新快速で34分、米原駅からも同19分

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