倉吉市打吹玉川:白壁土蔵と赤瓦が歴史を記憶する町
① 古代、伯耆国の国府であった倉吉。中世に北条氏や山名氏が守護となり、打吹城の城下町として町の骨格が形成
② 毛利、織田・羽柴と支援元と盟主の入替えが続き、一国一城令による打吹廃城以降は鳥取藩主の家老が明治維新まで継続統治
③ 平和が戻った江戸期には商人の活躍。古来より発達した製鉄で優秀な鍛冶職人が豊富、開発した鉄製稲扱千歯がメガヒット!
④ 倉吉絣と千歯の全国行商で富を蓄えた商人は赤瓦の町家や白壁土蔵を次々と。大阪豪商淀屋資本の倉吉淀屋が倉吉No1富豪に
⑤ 山陰の倉敷とも呼ばれるこの地区は倉吉駅からバス15分、三朝温泉も近く、山陰旅行の目玉の1つ。大阪からも直通3時間♪

倉吉市打吹玉川:赤瓦と白壁土蔵が眩しい、稲扱千歯と倉吉絣で一世風靡の商家町

この記事を読むのに必要な時間は約 8 分です。

倉吉の町は室町時代に打吹城の城下町として形成され、鳥取藩下の江戸時代には打吹山の麓に陣屋と武家屋敷が配置、その南側に今も残る赤瓦の商家町並みと玉川沿いの白壁土蔵群が美しい重要伝統的建造物群保存地区です。

これら建造物は、江戸中期から明治期にかけて倉吉の名を全国に馳せた稲扱千歯(いなこきせんば)や木綿・倉吉絣(かすり)で得た富で商人の活躍によるもので、私費で淀屋橋を架けた大阪の豪商淀屋が幕府に取り潰された後の後継者が倉吉一の大富豪「倉吉淀屋」です。

江戸末期から昭和前期までの伝統的建造物が約100棟現存するこの地区は、JR倉吉駅から4キロ程度と少し離れていますが、倉吉市の中心部は長い間このあたりで市役所もこの地区内にあります。倉吉駅からは日中でも頻繁に路線バスが往来、また、1985年に廃線となった国鉄倉吉線の打吹駅は1912~1972年の60年間もの長きに渡り、倉吉市の代表駅である旧「倉吉駅」でした。

目次

玉川沿いの白壁土蔵

玉川沿いの白壁土蔵群は江戸から明治にかけて建てられました。白壁の上半分は吸湿、防水、防火性能を兼ね備えた白の漆喰が塗られ、下半分は表面を炭化させた焼き杉板を使って、着火性を低下、風雨への耐久性と防虫性も向上させています。

玉川にかかる石橋はそれぞれが緩やかに反った一枚石で、1本北側の本町通りに建つ町家の土蔵側からの通用門として使われていました。

赤褐色の瓦は山陰地方でよく見られる石州瓦が起源と言われています。石州瓦は、耐火度の高い土を使い、表面に釉薬(ゆうやく)を塗って1200℃以上の高温焼成するので土がしまり表面はガラス質となり、硬くて丈夫のみならず吸水率も低くなるので凍害に強くなります。

石州瓦は現代でも豪雪地帯や寒冷地域で広く使われていて、釉薬瓦のうちの20%を占めています。

本町通り赤瓦商家の町並み

白壁土蔵が並ぶ玉川のひと筋南側にある本町通りには、赤褐色の石州瓦が使われた切妻づくりの平屋・中二階・二階建ての平入りの商家が並んでいます。

倉吉の歴史

打吹城下町として始まった町

戦国期に山名氏が造営した打吹(うつぶき)城は織田・豊臣方の南条氏に支配が移り、関ケ原敗戦後の改易、続く中村氏の世嗣断絶による改易で幕府直轄の城下町になりましたが、1615年の一国一城令で城は破却。白壁土蔵群横の玉川は打吹城の外堀とも。

  • 大化の改新で一国となった伯耆(ほうき)の国(国府があったのが現在の倉吉市内で打吹玉川を西に数キロいったところ)を鎌倉時代は六波羅探題南方の北条氏が守護を兼ね、室町時代は山名氏が守護を世襲
  • 14世紀後半に山名時氏の嫡男である師義(親子とも、尊氏と義満を含む足利氏が主君)が造営した打吹城の城下町として倉吉の町の骨格が完成
  • 山名氏が衰退したあとは、倉吉の日本海側にある現在の湯梨浜町の国人であった羽衣石(うえし)城主・南条宗勝が、1562年に毛利元就の支援を得て旧領として打吹城を管理下に置き、山陰地方東部の最大の国人に成長
  • 1575年に急死した宗勝の嫡子元続は1579年に毛利から離れて織田氏の配下に。1582年に毛利氏の猛攻で羽衣石城が落城しましたが1584年羽柴氏と毛利氏の和睦で、南条元続は羽衣石城に復帰するとともに打吹城も再び支配下に
  • 1591年の元続病没後を継いだ実子の元忠は、関ヶ原西軍として敗北後に改易され、米子城を居城とする中村氏が打吹城を城番として管轄するも後継者なく改易、打吹城は江戸幕府の直轄に。その後まもなく一国一城令により破却

江戸期は鳥取藩主家老が委任統治

関ヶ原後は鳥取藩主として池田家宗家と分家が入れ替えを繰り返し、1632年以降からは分家に落ち着き、倉吉は明治維新まで家老の荒尾家が委任統治。

  • 秀吉病没後に家康に接近して東軍として1600年に関ケ原を戦った輝政(宗家)の弟・長吉が、同年鳥取藩を立藩
  • 1615年に二代藩主長幸が備中松山藩へ転封、宗家の光政が播磨姫路から入封し、16年間で鳥取城下町の基盤を整備
  • 1632年に光政の叔父である岡山藩主が死去すると幼少の嫡男光仲と鳥取の光政が配置換え(その後この系統で池田氏12代が明治維新まで継続)
  • 池田光仲が鳥取藩主になると、鳥取藩庁以外に米子に城が置かれ、荒尾但馬家が伯耆米子領1.5万石、荒尾志摩家が伯耆倉吉領1.2万を委任統治
  • 委任統治先には陣屋が置かれ、倉吉では打吹山麓に築かれ、この陣屋が明治維新まで続く

江戸~明治期は商工業の中心地

江戸時代中期には東廻り航路や西廻り航路などの海運が発達すると、江戸中期から優秀な鍛冶職人の技術から生まれた「稲扱千歯(いなこきせんば)」と、末期以降は以前から特産品であった木綿を生かした「倉吉絣(かすり)」が倉吉の名前を全国に知らしめていきました。これらの商売で富を蓄えた商人が土蔵や町家を建てて現在の町並みに至りました。

倉吉の稲扱千歯は全国シェア8割に

 稲扱千歯(いなこきせんば)は櫛の歯のように分かれた千刃と呼ばれる部分で稲穂から籾粒をしごき取る脱穀器具。もともと竹製の千歯はありましたが、倉吉ではそれを鉄製で製作、力を入れずに脱穀できるようになったことが特徴で生産性が向上しました。
 江戸時代後半に製造が始まった倉吉の千刃は、大正時代に回転式の足踏脱穀機が出現するまで約150年間活躍。メンテナンスもしながら行商で全国に販売し、一時期は全国の8割が倉吉の千刃で、地方ごとの稲穂の違いに合わせて歯の間隔を調整するなど高度なカスタマイズも。

一度は消えた倉吉絣は戦後に蘇生

 倉吉絣(かすり)は約200年前の江戸時代末期に、稲島大輔が絵絣を初めて織り、明治になって盛んに織られるようになり、稲扱千歯の行商により京都・大阪をはじめ全国で高額で取り引きされました。もともと絣はインドなどの南方から琉球経由などで日本に伝わり、江戸時代末期から広く織られ、明治期に急速に普及。
 倉吉絣の特徴は絵画のような文様を表した美術的で精巧な絵絣で、織機の縦糸を上げ下げする綜絖(そうこう)という器具を2枚だけ使う平織しかなかった時代に、器用な女性が多かった倉吉ではそれを最大10枚も使って複雑な柄を考案。
 ところが大正時代に絣の工業生産が始まると、その複雑さゆえ倉吉絣は機械化ができず、高度な織り方を記した伝書を理解できる人もいなくなり衰退。戦後になって織り方も分からなくなっていましたが、染織家の吉田たすく氏が20年の年月をかけて復活させ、三男である吉田公之介氏が継承。また絣研究科の福井貞子氏が代表である「絣保存会」も立ち上げられ、倉吉絣は現代にも継承。

大阪の豪商淀屋を継いだ倉吉淀屋

(1) 江戸初期、大阪淀屋が四代続く大富豪に
 大阪淀屋の初代岡本常安は秀吉が天下取ったころ材木商で淀川築堤工事など請け負い財をなし、大坂の陣では茶臼山に本陣建てて家康から苗字帯刀の許可。
 二代目言當は米市に集まる商人たちの便宜のために私費で土佐堀川に橋を架け、現在の「淀屋橋」に。

(2) 幕府に睨まれ五代目で全財産没収
 三代目と四代目でますます繁栄したものの、1705年に五代目廣當19歳のときに江戸幕府より闕所(けっしょ)、つまり財産の没収と所払いの処分に。
 表面上は町人には過ぎた豪奢な振る舞いという理由だが、実際は淀屋から総額100兆円を越す膨大な借金をしていた大名たちの窮状を救うためとも。。。

(3) 事前に暖簾分けを進め、倉吉にて再興
 しかし四代目重當はいつしか幕府の闕所処分になるだろうと事前察知、番頭の牧田に命じて牧田生まれ故郷の倉吉に淀屋の財産を分散、淀屋が再興できるよう準備。
 牧田が始祖となる後期淀屋は稲扱千刃と倉吉絣で倉吉第一の富豪に。二代目のときには元の淀屋橋に復帰。

(4) 取り潰し60年後には名実ともに上方復帰
 当初は屋号を多田屋としましたが、三代目がついに初代淀屋清兵衛を名乗り、闕所から60年後に名実ともに淀屋が大阪の地に復帰を果たしました。
 ところがそれから約95年後の1859年、後期淀屋八代目で大阪と倉吉の家屋敷のほとんどを処分、財産を討幕運動のために朝廷に献上して歴史からその姿を消しました。

後期淀屋の倉吉での拠点が1760年建築の淀屋牧田家の建物で、倉吉市に現存する最古の町家となっています。

後期淀屋は代々淀屋清兵衛を名乗り、大蓮寺に代々の淀屋清兵衛の墓がまつられています。下の写真は、本町通りから弁天参道沿いに、白壁土蔵の通りの向こう側に大蓮寺を臨んだところです。

その他の立ち寄り処

倉吉白壁土蔵群観光案内所
本町通りのすぐ南側にあり、レンタサイクルとコインロッカーもあります。看板が残っているとおり、元サイダー工場で、倉吉出身の第53代横綱琴桜(1940-2007)も学生時代にアルバイトをしていたそう。

赤瓦一号館 [玉川沿い]

旧国立第三銀行倉吉支店 [本町通り]
明治41年に旧第三国立銀行倉吉支店として竣工。明治38年、倉吉支店のある魚町一帯が火災により消失したことで、火災に強い蔵造りの銀行として再建されました。外観も内部もほぼ原形のまま残っており、鳥取県第1号の国登録有形文化財となり、現在は洋食レストランとして現役で使われています。

桑田醤油醸造場(明治10年創業)[本町通り]

吹回廊
倉吉駅からの路線バス停留所(赤瓦・白壁土蔵)すぐそばにある、打吹玉川地区を一望できる展望台を備えたレストランや土産店が入った複合施設

アクセス

  • JR山陰本線倉吉駅のバスターミナル2番乗り場から12~15分の「赤瓦白壁土蔵(市役所)」で下車(日中でも5~10分に1本あり)

関連資料

関連記事

  1. 近江日野商人山中庄吉の旧宅

    日野町:漆器と合薬の行商から全国規模の仮想”総合商社”を産んだ近江の商家町

  2. 滋賀県にある近江商人発祥の重要伝統的建造物群保存地区

    五個荘金堂:ロケ地にも多用される近江商人発祥の農村集落~滋賀県東近江市

  3. 近江八幡:関白豊臣秀次が築いた水郷の城下町は近江商人発祥の近世商業都市へ

  4. 千曲市稲荷山:中山道と長野を結ぶ善光寺街道に残る多様な建築群が楽しい旧商都

  5. 善光寺参拝・佐渡金銀輸送・参勤交代で繁栄した北國街道の宿場町

    海野宿:道中央に水路と並木の北國宿場町~善光寺参拝・佐渡金銀輸送・参勤交代で繁栄

  6. 美濃市美濃町:日本三大和紙の産地として栄えた、うだつの上がる商家町

  7. 明治期の2度の大火後に蔵以外の建物が禁止された

    若桜宿:明治期3大火後の蔵通りとカリヤ、城下町時代の水路が織りなす町並み