海野宿:真田三代と養蚕業の歴史もある東信濃の宿場町
① 長野県東御(とうみ)市にある海野(うんの)宿は、中山道と北陸道を結ぶ街道上の宿場町として江戸時代初期から発展
② 佐渡で採取した金銀の輸送、前田家など北陸諸大名の参勤交代、善光寺への参拝客などで賑わいました
③ 宿場機能が失われた明治以降は広い部屋を利用して養蚕業が盛んになり関東や外国まで販路を拡大
④ 戦後、養蚕業は一挙に衰退、新たに出来た国道18号線沿いに商業や物流の拠点が移り、海野宿内を通る街道も旧道に
⑤ 古代から1000年以上に渡り栄えた海野郷と海野宿は時流から外れたことが幸いで町並みがよく保存されました

海野宿:道中央に水路と並木の北國宿場町~善光寺参拝・佐渡金銀輸送・参勤交代で繁栄

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海野宿は軽井沢を過ぎた中山道の追分宿と北陸道の直江津を結ぶ北國街道にある宿場町で、道幅10mの中央に水路と柳並木を配した全長650mの街道両脇に本陣1軒と脇本陣2軒をはじめ、旅籠屋造り、養蚕造りなど約100棟の歴史的な建物がよく保存されています。

重要伝統的建造物群保存地区、日本の道100選にも指定されていて、平均的な他の重伝建地区と比較しても町並の保存度合いが高く、飲食店や土産物店など数も少なく目立たないので、江戸や明治期の雰囲気をよく感じ取ることができます。

目次

アクセス

東京から90分の新幹線駅から電車で10分

北國街道では隣の宿場町だった上田に東京から90分前後で北陸新幹線が1日30本近く停車し、そこからは「しなの鉄道」で最寄りの田中駅まで10分とアクセスもよく、長野や東京から日帰りにも便利です。

最寄り駅の観光案内所からは無料貸自転車で

さらに、しなの鉄道田中駅の観光案内所には無料の貸自転車があり、海野宿入口まで1.6kmの道のりを片道5分ほどで行き来することができます。自転車にはラミネート加工された海野宿の地図も備え付けられていて小さなスマホや紙の地図を取り出す必要もなくとても親切です。電動自転車も選べます。

海野宿までの1.6kmは地元の人しか知らないような、車が通らない裏道の田園地帯を行くルートがあり、行きは「海野宿」の看板が、帰りは「田中駅」の看板が要所に設置されていてスマホがなくても迷うことがありません。

ちなみに、海野宿がある人口3万人の東御市の中心は田中駅前にある80~100軒の商店からなる田中商店街で、もとは江戸寄りの隣接宿場町の田中宿でした。商店街としては小さい(駅前通りを国道18号線まで300m、さらに通りから東に450mほど)ですが、結婚式場や駅前の日帰り天然温泉など比較的大きな施設もあったりします。

上信越道ICが近く、高速バスや車も便利

自動車の場合は、東京都心からなら上信越自動車道「東部湯の丸インターチェンジ」まで約3時間、そこから9分で海野宿の無料駐車場に到着します。また、都心からは上田駅行きや東御市役所を通る高速バスが、関西方面からは大阪/京都と軽井沢を結ぶ夜行バスが上田駅や東御市役所(田中駅から徒歩7分)を通っています。

海野宿の町並み(写真)

立ち寄りどころ

白鳥神社

海野宿の田中宿側の入口には、海野郷の産土神(うぶすながみ)である白鳥神社があります。日本武尊の伝承を縁起とした海野氏の始祖を祭る氏神で、海野氏に端を発する真田氏の守護神としても厚く崇敬されていました。

関ケ原西軍として敗れた真田昌幸・信繁(幸村)親子と袂を分かち、徳川体制のもと上田藩主となった信繁兄の真田信之が松代に加増移封された際もこの白鳥神社から松代へ分祀されています。

海野宿歴史民族資料館

中世の東信濃を支配した滋野一族や海野氏、それを受け継いだ真田三代、そして江戸期以降の宿場町や養蚕町の歴史などがよく説明されています。 開館時間:午前9時~午後5時(10-12月は午後4時まで) 休館日:12月21日~2月末日

なつかしの玩具展示館

江戸後期に建てられた宿場時代の建物が、全国各地から集められた郷土玩具の展示館として再生。ひとつの国でこれだけの種類の玩具を編み出したのは日本くらいでしょうか。ちなみに、道を挟んだ向かい側が海野宿の本陣が立っていた場所です。

海野宿の歴史

天皇献上の名馬産出した海野氏が台頭

  • 「海野郷」は都から東北方面につながる街道の要衝で、1200年前にはその名が正倉院御物に登場
  • 冷涼で乾燥した浅間山麓の気候が馬の飼育に適していて、朝廷に献上する馬を飼育していた滋野一族三氏が中世の東信濃を統括
  • 源氏旗揚げで義朝に加わり、一族統率した海野氏は源頼朝の御家人に
  • 室町末期の1541年に武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合との海野平合戦で敗れて名族海野氏は滅亡

真田氏の上田城下に住民を移住後は宿場町に

  • 海野氏と血縁ある、真田氏中興の祖である真田幸綱(幸隆)もともに敗走するも、のちに武田信玄に仕え、海野郷含む本領の小県(ちいさがた)に復帰
  • 幸綱から家督継いだ真田昌幸が1583年に上田城築城、海野郷の住人、商人、職人、寺社の多くが城下町に移り海野町となり、元の地は「本海野」に
  • 上田城下への移住で縮小していた本海野は、1625年に海野郷は北國街道の宿駅に指定され、参勤交代・佐渡金山の金銀輸送・善光寺参拝客で繁栄

副業だった養蚕が、宿駅制度廃止で主力産業に

  • 宿場の荷送りや旅篭屋に加え、生活を支えるための副業として養蚕業が発展(千曲川河川敷からの風通しの良い川風で害虫が発生しにくく、江戸末期には病気をもたない健康な蚕産地としてのブランドを確立)
  • 明治に入り宿場制度が終わると蚕の卵を商品とする蚕種製造が地域の主力産業になり、東京や海外にまで販路を拡大
  • 本海野村では欅づくりの堅牢な蚕室や鯱瓦の袖うだつをのせた屋敷も造られ、現在の伝統的家屋の町並みを形成

養蚕衰退後は、新設国道からも外れて旧道に

  • 昭和に入ると競争力低下で生糸輸出が減少、大戦後は壊滅的な影響を受けて養蚕業もほとんど閉業
  • 昭和40年代には海野宿を通る街道も旧道となり、新たに開通した国道18号線沿いに物流や商業の中心が移る
  • 時流から外れて静かな時代を迎えたが、伝統的家屋の風情や景観を残し、昭和61年に旧建設省の日本の道100選、翌62年には文化庁の重要伝統的建造物保存地区に指定

隣の田中宿との関わり

  • 宿駅として開設当初、田中宿の間の宿だったが、1742年の洪水で田中宿が壊滅的被害を受けたあと本宿として機能開始
  • 1761年に田中宿は立ち直り、海野宿と交代で宿場を再開、1830年には完全に再生するも、1867年の大火で宿場全体の約6割が消失
  • 1878年の明治天皇北国御巡幸では、田中宿の本陣で明治天皇が御休憩、その間に岩倉具視右大臣など役人が海野宿を訪問
  • 海野宿北側に計画中の鉄道駅は、隆盛極めていた養蚕業に汽車からの煙が悪影響及ぼすとして、1888年に第二候補地の田中に信越鉄道の田中駅が開業

関連・参考サイト

訪問後記

長野県の北國街道沿いにあるということでなかなか行きづらいのではないかと思っていたのと、さほど規模感や保存度合いを期待しないで訪問しましたが、どちらも大きく外れてました。真田氏ゆかりの上田城や「海野郷の人たちが移住した海野町」がある上田市内とセットで巡るのもよいかもしれません。

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