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上田市の柳町は1583年に真田昌幸が上田城を築いたあとの1596年に中山道と追分宿(軽井沢の西)で別れ北陸街道の直江津に至る北国往還(北国街道)が設けられ、上田が宿場になったときに整備が開始されました。関ケ原合戦後に真田信之が上田藩主になった頃は全国各地で近世城下町が建設され、現在の都市のベースとなっていますが、上田の市街地もそのひとつ。
柳町の北側の入口
上田城下が通る北国街道は、加賀百万石の前田氏など北陸大名の参勤交代、佐渡金山で採取された金銀の輸送、そして長野善光寺の参拝客などで大変賑わいました。特に、江戸時代後期からは養蚕業の先進地にもなり、明治に入ると水車や蒸気機関の動力を利用した製糸工場も立ち、柳町の養蚕業は隆盛を極めました。
しかし、昭和の世界恐慌以降は衰退の一途をたどり、近代的製糸業発祥の地である柳町からも製糸工場が消滅しました。戦後40年の間に柳町の人口も大きく減少し、1980年代後半には建物の老朽化や空き家問題が深刻化しました。
柳町の南側の入口
柳町の南側の入口
一方、戦後間もない1953年には柳町の東側を平行に北上する国道141号線が開通し、国道沿いには大型店が建設され、不動産開発の波の中で東側の店舗や住宅は減少して駐車場が多くなりました。現在でもおもに西側に店舗や住宅が多く残り景観もよく整備されています。
北側から見た柳町
南側から見た柳町
そんな中で1992年に住民主導で街づくり協議会が設立され、民家や商店の修景、電柱の移設や石畳化、保名水(湧き水の簡易水道)の補修など景観の整備を10年以上にわたって推進しました。特に西側の町並みは建物の軒高がよく揃っていて、柳の木も多く、ほぼ無電柱であることが美観に大きく貢献しています。
また同時に、現在まで飲食店や店舗などを誘致した結果、もともとあった酒造、味噌醤油醸造店、武具店などに加え、蕎麦、焼き鳥、スペイン料理、カフェ、ワイナリーなどの飲食店、雑貨、パン、味噌、和洋菓子などの店舗が出店し現在では20店舗前後が営業を続けています。
2018年には街づくり協議会が柳町観光振興会に発展し、観光事業を推進して年間700台の観光バスが乗り入れるまでになりました。一方で、柳町は住民の生活の場でもあり、「町並のきれいな観光地」を積極的に前面に出すというより、観光客と地元住民が共存する、買い物の町として位置付けているようです。
柳町の夜
柳町の夜
旧北国街道沿いの柳町は長さ300メートルほどの小さなエリアで、北陸新幹線の上田駅からも1.2キロと少々離れていますが、真田昌幸が領地の海野郷の住民を移住させて成立させ、いまでは市街地中心の一角をなす海野町周辺、あるいは徳川の大軍を二度に渡って撤退させた上田城の入口からは500メートル前後と近いので、散歩、買い物、食事などでぜひ訪れてみてください。
上田城の本丸西櫓
海野町の商店街
参考サイト
- 信州上田北国街道 柳町(公式サイト)
- 上田市内地図(上田市ホームページ)
- 筑波大学大学院生命環境科学研究科地域研究年報