日野町:万病感応丸と日野椀の行商から豪商へ
① 滋賀県蒲生郡日野町は近江八幡市および東近江市五個荘とともに近江商人の3大発祥地のひとつ
② 特産品の漆器日野椀と、医者になった商人が調合した萬能感應丸の行商で衰退する町の経済を立て直し
③ 巨大市場を避けて地方や農村を攻める地道な行商と出店戦略で全国店舗数は近江商人三大拠点の中で最大に
④ 全国定宿網、自前の物流網、そして200年続いた独自の商人組合で個人経営の小型店舗における経営リスク軽減と効率アップ
⑤ 日野町は、のちに伊勢松阪や会津若松に出世転封した蒲生氏が永く治め、商業の礎を築いた地でもあります

日野町:漆器と合薬の行商から全国規模の仮想”総合商社”を産んだ近江の商家町

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滋賀県の南東部にある蒲生郡日野町の中心部は、室町時代に近江国の守護代となった六角氏の客将である蒲生氏が治める日野城の城下町として発展を始めた場所で、蒲生氏が信長・秀吉のもとで出世を重ね、伊勢松坂・会津若松へ移ってからは漆器(日野椀)や医薬品(萬病感應丸)の産地、そしてそれらの行商を起点に興った近江日野商人の発祥地として繁栄しました。

現在も城下町としての面影や商人たちの屋敷が昔ながらの町並みを残しています。いまでも製造販売され、日野商人の行商における強力なアイテムでもあった萬病感應丸を作った正野玄三の旧薬店、行商先駿河国での酒造業などの店舗経営に転じた山中庄吉や山中兵右衛門の日野本宅と、3つの商家を見学することができます。

名神高速道路の蒲生ICから12km、JR近江八幡駅からバスで約1時間、最寄りの近江鉄道(路線図はこちら)日野駅からバス15分、と必ずしも交通至便なところではありませんが、観光施設における説明や展示、パンフレット類の質や量もかなりしっかりしていて、施設案内人の説明も親切で分かりやすく、日野商人について、さらに八幡商人や(五個荘商人などの)湖東商人を含めた近江商人全体のことや古くからある日本独自の「商業」の概念について知るにはおすすめの場所です。

目次

近江日野商人の生い立ちと発展

特産品の行商から現地店舗の経営へ

蒲生氏時代から衰退した町を特産品の行商で挽回
 もともと日野は室町・戦国期に蒲生氏の城下町として商工業で繁栄。ところが、戦国末期に蒲生氏が伊勢松阪に転封し、さらに江戸期に入り蒲生家が断絶すると町も衰退。そこで活路を求めたのが、もともとあった特産品である日野椀と医薬品の行商販売。
 約400年前の江戸時代初期、日野はすでに全国有数の漆器産地で、京や大坂に日野屋というショップがあるほど。またその100年後には「万病感応丸」など多くの日野合薬(あわせぐすり)も開発されて販売品目は拡充されました。
 日野商人は地元や上方からその他の産物も合わせて地方へ「持ち下がり」、その売上代金で諸国の産物を仕入れて上方で売りさばく効率のいい商業活動、すなわち近江商人の「のこぎり商売」で業績を伸ばしました。

行商先に出店、醸造工場・商店・卸業など経営
 行商では関東平野の農村、中山道など主要街道から分岐する地方道沿いの農山村を繰り返し訪問してなじみ客を作っていき、その結果販路と資本ができると、持ち下り地を中心に店舗を出店していきました。
 そこでは通常、酒・醤油・味噌・酢などの醸造製造加工の工場経営に始まり、それら商品と仕入れ雑貨を販売する商店経営やそれら商品の卸し業にも進出する、という順番で事業を拡大。さらに、多くの店舗は質屋や金貸し業も経営していました。下の表にあるとおり、江戸期に創業した日野商人の店舗のうち34店が現在でも営業中で、北関東で醸造系の事業への出店が多かったことが伺えます。

小規模多店舗からなる物流網で事業拡大

大都市を避けて、小規模多店舗を展開
 出店先としても行商先と同様に江戸、京、大坂の三都などの大都市を避け、関東の地方都市や農村部に展開。本店を拠点として出店(でみせ)・枝店(えだてん)とチェーン店方式で小規模ながら多店舗を経営。「三里四方、釜飯喰うところに店を出せ」というのが方針でした。
 主要都市で大型店舗経営に力を入れていた八幡商人の「八幡大店(おおだな)」に対し、日野商人は千両(という出店規模としては小規模な金額)が貯まれば出店するので「日野千両店」と呼ばれるようになりました。その結果、江戸期に出店した八幡商人の店は100店舗前後なのに対して日野商人の店はなんと約700店舗もありました。

安定経営により、産物廻し可能な拠点網が完成
 出店規模を小さくするのは市場規模も意識したうえでのリスク回避策でもありました。また、負債取り立ての際に他店に及ぶリスクを最小限にするために、多店舗それぞれが別名義である独立経営体制となっていました。
 安定経営で店舗網が各地に広がると、店舗間での商品過不足や価格差に応じて品物の行き来(産物廻し)が行われ、現代における総合商社のモデルに。

独自の商人組合も個別商人や店舗を支援

日野大当番仲間の設立で経営はさらに安定
 地縁的・民主主義的な組織で、個で活躍する商人たちを組織的に支援を目的として商人組合「日野大当番仲間」が立ち上げられ、これが約200年間(1680~1885年)運営されました。江戸時代の一般的な商人組合であった、利益独占目的の「株仲間」とは本質的とは異質なものでした。
 会員数400以上を誇った日野大当番仲間は幕府の庇護も受けていて、売掛金の徴収が滞ったときには、売掛先の領主に訴えて幕府の威光によって徴収できる権限を持つことが最大の特徴。無限責任の時代に有限責任体制を導入するという画期的な制度を確立しました。

定宿制度や自前飛脚による物流網で事業効率化
 日野大当番仲間は、東北福島~大坂の全街道・全宿場に日野商人定宿のネットワークも構築(1770年時点の定宿数は181軒)しました。

日野商人は定宿や定休所に商品を飛脚便で送り物流拠点としたり、それらを拠点を軸に事業モデルを構築するなど、商売拠点としても活用しました。

 こうした定宿制度を全国展開したのは近江商人の中では日野商人だけで、商人組合のなかった八幡商人や湖東商人の一部の人々も加入したほど。

 また、独自に定期の京飛脚と伊勢飛脚を組織して全国の飛脚網と接続し、全国的な物流組織を確立して全国的な商いを可能にしました。

退職年金制度運用や業者保護育成にも注力
 退職金に相当する200両を本人に支給せず主人が預かり毎年その利息16両を盆と年末に分けて支給する、という1867年の日野商人の出店記録が残っていて、幕末にすでに退職年金を支給しているのも近江商人の先進性のひとつ。
 江戸初期から19世紀初頭まで鳥取藩が日野向けの椀木地問屋を保護(長期大量安定供給)、日野商人が中国山地に下請け産業を育成するなど、自らの経営を安定するための業者保護にも余念がありませんでした。

日野の合薬と日野椀~行商の主力商品

母の病きっかけに医者になった商人が開発した万病に効く合薬は行商の必須アイテムに
 日野町は、近江商人の発祥の地のひとつであると同時に、甲賀地方と並ぶ近江売薬の発祥地としても知られています。その起こりは、18歳から東北地方で行商をしていた日野商人、正野玄三が母親の病を機に帰郷し、母の病を治した名医に感銘を受け、35歳から8年間京都で修業を積み医師となり、1701年に旧正野玄三薬店(現在の日野まちかど感応館)を開業したことに始まります。
 堺から薬種を仕入れて調合も行うようになり、僻地や日野商人の道中薬として「神農感應丸」を持たせたところ、全国で効き目が評判となり、日野で薬を製造する業者が増え(現在も地場産業に)、日野椀に変わり行商の主力商品になりました。
 合薬は持ち歩きやすく利益率も3~4割とそれまでの商品の1~2割と比べて格段に向上、薬卸売業を始めて25年目には3.3億円の資産を築きました。
 はじめは医薬神である「神農」を冠していましたが、万病に効くという評判が広まり、「万病感応丸」と呼ばれるようになりました(1878年にこの俗称が正式名に)。

現在も製造販売され続ける日野の合薬
 1943年の企業整備令により30数社すべてが統合されて「近江日野製薬㈱」となり、1956年に「日野薬品工業㈱」に改名、さらに2012年に現在の「大木ヘルスケアホールディング」の傘下に入りましたが、「正野萬病感應丸」は現在まで昔のままの形状で伝統薬として受け継がれています。
 親会社である大木ヘルスケアHDについてもそのルーツは、1658年に近江商人である大木口哲が江戸両国に創業した家庭薬製造販売業「大木五臓圓本舗」が発売した滋養強壮薬「大木五臓圓」。こちらも、同じく傘下の大木製薬㈱が現在も大木五臓圓の製造販売を続けています。

参考サイト:
 日野薬品 薬の歴史(万病感応丸)他
 大木グループのあゆみ

日野椀:日野商人初期の主力商品は、生産が途絶えて150年を経た21世紀に復活
 蒲生氏郷が会津に移る際に日野の漆器職人を連れて行ったため製造が一時衰退しましたが、江戸初期の日野商人の活躍により復興し、庶民使いの漆器として全国に広まりました。その後、行商の主力商品が薬になったことと、1756年の日野大火の影響で衰退し、江戸末期には消滅。
 現在は「日野椀復興の会」の木工作家北川高次氏の手で日野町で再び製造され始めています。食洗器の使用にも耐える普段使いの漆器の製造にも成功しています。

立ち寄りどころ

歴史民俗資料館 近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)

山中兵右衛門家は享保年間(1716~36年)現在の静岡県御殿場市で諸品の販売と酒造業を営んでいた日野商人で、この建物が同家の本宅。太平洋戦争直前の大不況の中、職人を救済する「お助け普請」として1936年から4年かけて6代目により新築されました。和風、洋風を取り混ぜていて、新築当時から上水道、水洗トイレ、電話ボックスなどが設置され、バリアフリーも採用されていました。

初代兵右衛門が当時御殿場に構えた店舗は、現在も静岡県駿東郡清水町に本社がある株式会社兵右衛門商店に受け継がれています。こちらの日野の本宅(下の写真)は、1981年に6代目が無償で日野町に寄附されて近江日野商人館となったものです。

近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」

1831年の天保初年から現在の静岡県富士宮市で酒造業を営んでいた山中正吉家の本宅で、初代正吉が幕末の1860年に仁正寺藩(日野城跡に設置した陣屋を設置し近江国蒲生を治めた藩)から土地を拝領したことから始まり、1938年ころ現在の形に。この地方の農家住宅の典型例である一方、洋間や洋風の浴室など豪商の暮らしぶりも見ることができます。

旧山中正吉邸では、入館料込みで2000円から、食体験レストランで《日野の伝統料理を継承する会》のメンバーが用意する鯛そうめん御膳などの日野の伝統料理を日本庭園を見ながら楽しむことができます(予約制)。

日野まちかど感応館(日野観光協会)-旧正野玄三薬店

日野商人の行商における主力商品であった万病感応丸を創薬した日野玄三が開いた薬店で江戸中期に建てられました。現在は日野町の観光情報発信基地として活用されています。日野および近江商人に関する豊富なパンフレット類をそろえています。お土産類の販売のほか、軽食コーナーもあり、休憩場所としても利用できます。

また、手前の日野商人街道の反対側には、簡単なランチが手軽に食べられる新館、そして駐車場とトイレが完備しています。このエリアを中心として東西それぞれ1km弱のエリアがメインの散策範囲です。

町並みとその他の見どころ

岡本町・南大窪町の町並み
江戸時代、行商をしながら全国行脚した日野商人たちの本宅が残る町並みです。赤色顔料であるベンガラ(酸化第二鉄Fe2Oが主要発色成分)が塗られた板壁は日野町に多く存在します。

馬見岡錦向神社
日野町の東にある綿向山山頂の大高神社の里宮で、中世には蒲生家、近世に入って近江日野商人に崇敬されました。5月2~3日の日野祭はこの神社の春の例大祭です。

曳山蔵
日野市街の西は岡本町・南大久保町から東の馬見岡綿向神社までの2kmほどの間に日野祭りで使われる全16基の保存蔵が点在しています。

新町の町並み(桟敷窓)
全国的にも珍しい桟敷窓は日野町に40数軒あり、日野祭りを家の中から見物するためのもの。反対に、春先にになると奥座敷に飾ったひな人形を道行く人からも見えるようになっています。

日野守貞
日野まちかど感応館(日野観光協会)からも100メートルほどのところにある、明治期の商人屋敷をリノベーションして蕎麦処、カフェ、アートギャラリー、枯山水庭園、一棟貸し宿などを併設した施設です。

蒲生氏郷公~国内3領地でいまも慕われ続ける名将

守護代六角氏、信長と秀吉に仕えて出世

  • 室町時代には近江国の守護大名となった六角氏の仕え、その戦国大名化を支援
  • 六角氏が織田氏に滅ぼされると、13歳から信長の人質として岐阜城で過ごし、2年後の1570年に信長の次女と結婚して日野城に復帰
  • 本能寺の変では安土城にいた信長の妻子を日野で保護。明知光秀は長浜、佐和山、安土の各城を配下の武将に攻略させ、次は日野を攻略というところで敗死
  • 引き続き秀吉家臣として働き、1583年の賤ケ岳の戦い(羽柴秀吉vs.柴田勝家)、小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉vs.織田信雄・徳川家康)における功績で日野6万石から伊勢の松ヶ島12万石に移封(城下町を松坂と名付け、1588年には松坂城を築く) 

92万石の大大名になるも継承者なく断絶

  • 1587年の九州出兵、1590年の小田原出兵でも戦績をあげ、陸奥国会津黒川42万石に転封(のちに徳川、前田に次ぐ92万石に)
  • 蒲生家や日野商人が崇敬した日野の馬見岡錦向神社参道にあった「若松の森」にちなんで、黒川を若松と改名。黒川城についても改築したうえで、自身の幼名鶴千代にちなんで鶴ヶ城と改名
  • 1592年からの朝鮮出兵に向かう途中に駐屯していた肥前名護屋城で体調を崩し、翌年会津に帰国したが病状が悪化、1594年に養生のために上洛したが病状はさらに悪化、翌年伏見の蒲生屋敷にて40歳の若さで他界
  • 戦国大名に珍しく側室をおかず、息子二人も早世したため、蒲生氏は断絶

楽市楽座推進/利休も認める茶人/キリシタン大名

  • 日野城下に楽市楽座を開き商業を盛んに。その後の転封先である伊勢松阪や会津若松でも同様の産業政策を実施したため、それを氏郷の徳を慕って移住する商人も多数
  • 千利休高弟7人の武将である「利休七哲」にも名を連ねる。誰が七哲に列せられていたかには諸説あるが、どの説においても一貫して変わらない2将が細川忠興と蒲生氏郷
  • 高山右近らの影響で1585年にキリスト教の洗礼を受ける(洗礼名レオン)

日野町のみならず、松阪と会津若松においても、そして現代もなお慕われ続けています。
松阪の礎を築いた戦国武将「蒲生氏郷」
会津若松の基礎を作った、文武両道に優れた名将

関連情報

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