五個荘金堂:白壁の商人屋敷が並ぶ湖東平野の農村集落
① 滋賀県東部の湖東平野にある五箇荘(ごかしょう)は、近江八幡市や日野町とともに近江商人三大発祥エリアのひとつ
② 江戸初期に現れた八幡商人から約200年、江戸中期の日野商人からも約100年後れて、江戸末期から明治以降に活躍
③ 行商から始まった事業は全国に300店舗以上を展開するまでになり、現在も発展を続ける有名企業のいくつかも五個荘で創業
④ 「三方よし」の概念にこめられているように、社会を含め世代を超えて長期・広範の共栄共存を志す精神が繁栄の根幹
⑤ JR琵琶湖線の駅からもバスで10分で行ける、重要伝統的建造物群保存地区や日本遺産にも選定された静かなの農村集落です

五個荘金堂:ロケ地にも多用される近江商人発祥の農村集落~滋賀県東近江市

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五個荘は近江商人の三大出身地のひとつで、豪壮な近江商人の本宅をはじめ、白壁と舟板塀の蔵や屋敷が多く残り、鯉が泳ぐ美しい水路が流れ、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町並み、商家・社寺などの建物や史跡は、朝ドラ「べっぴんさん」や「ごちそうさん」、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」など、約20の映画やドラマの撮影も行われました。

五個荘商人は、江戸初期からの「八幡商人」やそれに続いた「日野商人」と比べて登場が遅く、全国300店以上の出店のうち江戸時代のものは13店舗のみ(さらに金堂町出身の商人の出店となると27店舗中江戸時代のものは、外村与左衛門京都店と大阪店、その分家である外村宇兵衛の江戸店の3店舗のみ)。したがい、現在残る主屋の建築年代は明治・大正期のものがほとんどですが、近江商人の近代における発展の様子を垣間見ることができます。

保存地区としてのもうひとつの特徴は、1辺が1町(約110メートル)の正方形区画を基本とした、古代条里制が現在の地割にも継承されていて、大和郡山藩の飛び地として陣屋と社寺を中心に形成された農村集落の景観が残っている点。神崎郡条理と呼ばれるこの条理型水田は滋賀県東部の湖東平野に長さ12km、最大幅4kmにわたって広がっています。

金堂という地名は聖徳太子がこの地で休息し、金堂を建立したという伝承に由来しています。金堂を含む地域を指す「五個荘」の名前は、鳥羽法皇の院政時代(1129~1156)の時点で周囲の荘園を含めて「山前五個荘」という荘号が使われており、2005年に八日市市などともに東近江市に合併される前の五個荘町という町名の起源になっています。

目次

立ち寄りどころ

近江商人博物館

革新的な商法と不屈の精神で行商から豪商になり現在も続く名だたる企業(高島屋、丸紅、伊藤忠、日本生命保険、ワコール、西川産業など)の礎を築いた近江商人の軌跡を紹介しています。

外村宇兵衛邸

 初代外村(とのむら)宇兵衛(1777 – 1820)は近江商人であった六代目外村与左衛門の末子で、のちに分家して1813年に呉服太物を扱う事業を開始。東京、横浜、京都、福井などに支店を出し商圏を広げ、明治時代には全国長者番付に名を連ねる近江の豪商になりました。

 本家の外村与左衛門は五代目が麻の行商をはじめて120年経過して1805年に京都、1836年に大阪に店舗を開設、現在も外与株式会社として続いています。
 分家の外村繁邸は四代目外村宇兵衛の妹に婿養子を迎えて始まり、現在は改装工事中で今後宿泊施設に生まれ変わります。

外村繁邸

 四代目外村宇兵衛の妹みわに婿養子吉太郎を迎えて分家、東京日本橋と高田馬場で呉服木綿問屋を始めて繁栄しました。繁は吉太郎の三男で、長兄が本家養子、次男病没のため商人としていったん跡を継ぎました。しかし、その後弟に家業を託し、近江商人の根源を探求する私小説家となり、数々の文学書を受賞(第一回芥川賞候補にも)。

藤井彦四郎邸

 藤井彦四郎は近江商人の三代目藤井善助の次男として生まれ、後に分家して藤井糸店を創業。日本の化学繊維市場を築いたパイオニアのひとりと言われています。1889年にフランスでレーヨンが発明されたことを知り、見本を輸入して人工絹糸と名付けて京都西陣に売り込み市場開拓に尽力。
 大正期に入り帝国人造絹絲(現在の帝人㈱)や旭絹織(現在の旭化成㈱)が国産化に成功するなか、今度は毛糸事業で共同毛織、共同毛糸紡績(現在の倉敷紡績㈱)を設立して「スキー毛糸」で成功しました。
 現存する邸宅は藤井彦四郎が昭和9年に建築した迎賓館です。

中江準五郎邸

 昭和初期に朝鮮半島と中国大陸で三越をしのぐ三中井(みなかい)百貨店を一代で築いた中江家四兄弟の五男準五郎の本宅として一般公開されています(蔵の中には五個荘が生んだ小幡人形と全国の土人形も展示されています)。

 三中井百貨店は、五個荘金堂の呉服小間物商・二代目中江勝次郎の長男として1872年に生まれた善三(のちに勝次郎を改名)がこの地に創業した三中井呉服店が始まり。
 1905年に勝次郎が大韓帝国に渡り、大邱で次男久次郎・三男富十郎・五男準五郎とともに兄弟4人で三中井商店を設立し朝鮮人向けの雑貨販売を開始。その後日本人も増加してきたこともあり三中井呉服店として店舗を移転新築、日韓併合翌年の1911年には京城に本拠を移しました。
 その後三中井商店は勝次郎主導のもとで、平壌、釜山、新京など、朝鮮と満州及び中国大陸に18店舗を持つ百貨店チェーンを築きました。しかもテナント方式ではなく全フロアが自社経営。
 1924年から米国視察した勝次郎は現地大手百貨店の販売手法を学んで経営改革を実施、1933年に三中井百貨店と改称し、京城に三中井百貨店が誕生。京城では三越と三中井を含む5百貨店が競合する状態に。これ以降急速に支店開設や既存店舗増改築を進め、1934年に株式会社三中井百貨店となり、1942年には総売り上げで三越を抜いて朝鮮・大陸でナンバー1に。

 一方で、1939年の勝次郎の引退に始まり、1945年までに四兄弟がすべて亡くなりそれを受け継ぐ人材も十分育っておらず、さらに同年の日本の敗戦で対外資産のすべてを失い、三中井百貨店は消滅。終戦時には、朝鮮に12店、満州に3店、中国に3点、日本国内には五個荘金堂が総本部で、京都本社や東京・大阪の仕入部などがありました。
 五個荘へ戻った家族は、戦後まもなく始めた煎餅店から変更した洋菓子店が現在も三中井洋菓子店として現在も彦根市の夢京橋キャッスルロード内で営業されています(お店のロゴは三中井百貨店のシンボルマークの井桁菱)。

金堂まちなみ保存交流館

三中井百貨店(上記、中江準五郎邸の項を参照)を経営した中江4兄弟の三男富十郎邸。まちなみ保存会のみなさんがボランティアで管理・運営されています。

その他の五個荘金堂町並み(写真)

アクセスと現地周遊

現地最寄り駅やバス停から主要スポットまでの距離感:
近江鉄道五個荘駅 ⇔900m⇔ 藤井彦四郎邸(見学可)⇔900m⇔ 近江商人博物館 ⇔600m⇔ 外村宇兵衛邸(外観のみ見学)/中江準五郎邸(見学可)/外村繁邸(見学可)⇔600m⇔ ぷらざ三方よし観光案内所/五個荘観光センター/無料駐車場/「ぷらざ三方よし前」バス停 (ぷらざ三方よしにはレンタルサイクルあり)

五個荘駅から近江商人博物館の間は、1辺1町(≒109m)の古代条理制をそのまま踏襲した田畑や民家の区分けが続いているのを見ることができます。

最寄りの駅(五個荘駅)やバス停(ぷらざ三方よし前)までのアクセス
近江鉄道路線図時刻表
JR琵琶湖線能登川駅 ⇔10分⇔ ぷらざ三方よし前 ⇔ 近江鉄道八日市駅 のバス時刻表(2016年更新)

 ちなみに、”三方よし”は、商いというものは、売り手も買い手も適正な利益が得られ、また、その取り引きが地域社会全体の幸福につながるものでなければならない、という近江商人の共存共栄の精神を表しています。これ以外にも近江商人にはさまざまな家訓があります。
 ”しまつしてきばる”は、薄利でも利益を上げるために他人のいやがる仕事を率先して「きばり」、長期的に経済合理性を実現させる「しまつ」の極意を表現したもの。
 ”奢れる者かならず久しからず”も、商いはあくまで農間の副業、表向きは百姓の身分であり、生活は質素で陰徳を積むことを喜びとしました。
 ”富を好しとし、其の徳を施せ”は、商売で富を得るのは良いが、その財に見合った社会貢献が重要と説き、商いの拡大とともに大きな徳を持った人間に成長すべきである、としています。

関連情報

パンフレットダウンロード(東近江市観光ウェブ)

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