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若桜(わかさ)宿は鬼ヶ城の城下町として町割りや水路が整備され、江戸時代以降は宿場町や鳥取東部の山間部における商工業の中心として発展しました。明治期には3度の大火で町は壊滅しましたが、防火対策の一環で蔵と寺だけが立ち並ぶ裏通りや軒先私道アーケードであるカリヤがある本通りなど、独特な景観の町を後世に残しました。
鳥取市中心部から鉄道やバスで1時間程度の山間部にある若桜町にあり、中心部の 東西680メートル、南北740メートルが令和3年の8月に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたばかりで、地区内にある500軒のうち約80軒が保存登録された昭和30年代までの建造物となっています。
町の全容を把握するには、若桜観光協会のこちらのPDFの2ページ目の「若桜・歩きMAP」も便利です。
目次
現代に残る町並みの歴史
江戸初期までに城下町割りや水路などが整備
1200年に矢部氏が築いたとされる若桜鬼ヶ城の城下町として発展しました。戦国期は木下氏(関ケ原西軍で敗戦し自害)が、それ以降は若桜藩を立藩した山崎氏が城主となり1617年に転封になり鳥取藩に編入までの間支配。両氏の統治下で、八東(はっとう)川治水のための石塁が築かれたり、街道や水路も整備されました。
八東川から取水して7本の「カワ」に分流、町内の街道沿いや敷地の境界部を流し、家の正面に「イトバ」(水くみ場)や「ホリ」(貯水槽)を設けて水を宅内に取り込んで生活や中庭の池で鯉(冬場のたんぱく源)の飼育に使われたり雪流しに使われ、現在でも歴史的風致の一部を構成しています。
廃城以降は宿場町、物流拠点、商家町として
もともと因幡国東部の商業地としても栄えていましたが、1617年の一国一城令による廃城以降は播磨国や但馬国に接する国境の地であることから交通の要衝となり、1701年には鳥取藩により宿場町に指定されました。旅館も約10軒あったと伝わり、近隣物資の集積地にもなり街道沿いには300戸が軒を連ねていたと推測されています。
明治以降は製糸業、木炭業、製材業も
明治以降も山陰地方山間部の商家町である一方、明治中期から大正時代にかけては製糸工場が設立され、但馬から若い女性出稼労働者も入ってきました。
大正期の若桜本通り(仮屋や石葺き屋根の建物がある)
~たくみの館の展示写真から転載~
さらに、豊富な森林資源を背景に明治末期からは木炭業、製材業が盛んになり、1930年に開通した若桜線はスギ丸太の貨物輸送に盛んに利用されました。
若桜鉄道のSL 三連アーチの若桜橋
1934年に鉄筋コンクリート造り三連アーチの若桜橋が本通り端部に架けられて交通量が増す中、昭和10年ころには本通りには約180軒が軒を並べる商店街が形成されたと言わています。
戦後は、木材輸入が増加して林業は斜陽化し、1960年代に1万人近くいた人口は10年で7000人余りまでに激減し、氷ノ山(ひょうのせん)への観光など産業の多角化に乗り出しました。その後も人口は直線的に減少し2021年時点で2700人余りとなり、若桜町全体の主産業は観光になっています。
明治期3度の大火後に生まれた町並み
最初の大火は1874年に発生、総戸数400余りのうち居宅が6戸、100以上あった土蔵のうち10棟のみを残し町は壊滅。1885年の2度目の大火でも370戸中350戸が焼失。2度の大火で江戸時代の町並みはすべて失われました。3度目の大火は26年後の1911年に発生、3分の1に相当する158戸が焼失しました。
10年余りの間に2度も町を焼失した住民は、1885年に自主運営組織「若桜宿会」を立上げ、本通りの拡幅と直線化、藁ぶき厳禁など屋根葺き材を難燃材に限定するなど防火対策を盛り込んだ復興計画「八東郡若桜宿宿会議決書」を策定し、火事に強い町づくりを進め、それが現在の町並みに受け継がれています。
復興まちづくりに関する宿会議決書
~「たくみの館」展示品~
蔵通り(裏町通り)
2度目の大火後は防火対策として、裏通りに人家を建てることが禁止され、その結果、現在でも瓦葺漆喰塗りで下見板張りがある土蔵20棟が300mにわたり連なっています。屋根の向きが妻入りになっているのは通りへの落雪への配慮と考えられています。
また、蔵の反対側に並ぶ寺の本堂や庫裏(くり:僧侶の居住場所)も道路から30メートル近く離れて建てることが決められました。
カリヤ通り(本通り)
本通りについても、2度目の大火後、家は道路端から3.3メートル下がったところに土台を作り、道路沿いに幅60センチの小川をつけ、土台と小川の間に約1.2メートル幅の仮屋(ひさし)を出すことなどを取り決めました。
建物と小川の間にでき、雪や雨の日も傘なしで軒下を歩けるアーケードとしての役割も果たす「公有」の私道は仮屋(カリヤ)と呼ばれ、豪雪地帯の若桜宿特有の建造物となりました。当時700-800メートル続いていた仮屋は昭和前期まで多く残っていましたが、いまは本通りのみでしかも途切れ途切れに散見される程度になりました。
仮屋のある建物~道路端から3.3m下がって土台を作った
仮屋のある建物~軒下(カリヤ)を通行人が歩くことができる
蔵通りの風景(写真)
立ち寄り処
若桜駅
若桜駅を含め、若桜鉄道開業時からの歴史的施設が国の登録有形文化財に指定されています。若桜駅舎内には2020年にカフェやラウンジもできて、到着時の休憩や出発前の待ち時間などに利用することができます。
若桜駅(国の登録有形文化財)
若桜駅前(左手に観光案内所やスーパー、突当りが本通り)
若桜駅構内のラウンジ
若桜駅構内のカフェときっぷ売り場
特にこの終着駅には蒸気機関車の手動転車台(当時のSLは前進しかできず)が残っています。4-11月の隔週の日曜日にはSLの牽引するトロッコに乗車できます。
SLと国登録有形文化財の給水塔
40トンのSLを4人で動かす手動転車台
若桜町観光案内所
若桜観光協会が運営していて若桜駅前にある若桜町バスターミナルを兼ねる施設です。自転車もレンタルすることができます。
若桜観光案内所 兼 バスターミナル
(向こう側が若桜駅)
若桜町山村文化保存伝習施設である「たくみの館」、因幡地方特有の建築様式の庄屋である「三百田氏住宅」、昭和56年まで山陰合同銀行若桜支店の社屋であった「若桜町歴史民俗資料館」の3つからなり、八東川対岸ではありますが、若桜駅から道の駅周辺を経由して徒歩10分程度で行くことができます。
若桜郷郷土文化の里
たくみの館
(若桜町山村文化保存伝習施設)
三百田氏住宅
(因幡地方特有の建築様式の庄屋)
若桜町歴史民俗資料館
(山陰合同銀行若狭支店の旧社屋)
築100年の古民家を改修し、若桜町に縁のある方々の民工芸品を展示しています。現在は5000点の土鈴が展示されていて圧巻です。
5000点の土鈴を展示
工芸館は仮屋のある古民家を改修
若桜橋
本通りの商店街と国道29号を結ぶ、八東川に架かる橋で、昭和9年に地方では初めてのコンクリート橋として完成。現在も地元住民の重要な生活道として活躍。鉄筋コンクリートアーチ橋であり、戦前の橋で3連規模のものは県内ではここのみ。
若桜橋
国の登録有形文化財に指定
休憩交流処かりや
明治中期の建物を復元改修して、飲食店・休憩所として活用。国登録有形文化財で、軒下の仮屋をよく残しています。
休憩交流処かりや(飲食店と休憩所)
休憩交流処かりや~仮屋がよく保存されています
明治中期の建物を復元改修し、駄菓子の販売や昭和期の玩具を展示。こちらも仮屋があり、そこに看板が取り付けられています(タイトルのリンク先の写真参照)。
標高452メートルの鶴尾山にあり、1200年に駿河国矢部氏により造営。矢部氏が16代城主を務め、その後、尼子、毛利、秀吉軍らの戦場となり、木下・山崎氏等の居城に。一国一城令で廃城、現在は石垣が残る。
アクセス
公共交通機関
- 鳥取駅から
若桜鉄道の車両 JR因美線郡家駅
日本交通の高速バス 日本交通の路線バス
- 大阪/京都方面から
スーパーはくと スーパーはくと普通車内
- 岡山方面から
- 特急スーパーいなばで郡家駅へ、若桜鉄道に乗り換えて若桜駅へ(2時間40分)
自動車
- 中国自動車道山崎ICから国道29号線を若桜方面へ85分、鳥取自動車道河原ICより若桜方面へ30分。国道29号線沿いの道の駅若桜がすぐそば
道の駅 若桜
参考資料
- 鳥取県若桜町 若桜
- 若桜駅周辺・まちあるきMAP
- 若桜鉄道の町を行く
- 若桜の自然を行く
- 若桜の歴史を行く
- 若桜の味とおみやげ探し
- 若桜宿まちあるきマップ
- 鳥取県東部の観光案内図
- 若桜観光ガイド
- 若桜鉄道
訪問後記
- 鳥取県東部の山間部の人口3000人ちょっとの町ではありますが、鳥取駅からは鉄道とバス合わせて1日片道30本近くあり遠さを感じさせません
- 若桜地方は現在も鉄路・道路とも主要な陰陽連絡道のルート上にあり、京阪神方面からは高速バスやスーパー特急の便が頻繁に往来、鳥取自動車道や道の駅も近く便利
- 観光の中心部も若桜駅や道の駅から近いので半日あれば十分楽しめますし、鬼ヶ城など周辺も散策して1日過ごすにも十分な観光資産があります
- 若桜鉄道に観光列車あり、若桜駅構内は過ごしやすく、観光案内所は親切で自転車もあり、など観光客フレンドリー
- 特に土蔵だけが狭い路地に連続して立ち並ぶ姿はなかなか他の重伝建地区でも見られないのでおすすめです♪